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23nagaoka
投稿日時: 2012/9/1 18:46
管理人
登録日: 2012/2/9
居住地: 大阪府豊中市中桜塚
投稿: 154
幻の池田中学校(同窓会報『承風だより』)


 『承風だより』第12号-1975(昭和50)年-に中川 啓史 先生(高校3期)が「巷説池田高校3 幻の池田中学校」を掲載なさっています。大阪府立池田中学校、池田高校の同窓生として、知っておきたいことだと考えられますので転載させていただきます。なお、送りがななど表記の一部を現行のものにしています。


巷説池田高校3 「幻の池田中学校」 中川 啓史

 母校は今年創立35周年を迎える。そして池田は古くから北摂きっての、いや府下でも有数の文教の町である。そこで逆に疑問が湧く。たしかに池田はとくに呉春が出た頃は文化都市であった。なのに池田にある府立高校は何故三五年しか歴史を有しないのか。つまり昭和十五年まで存在しなかったのかと。
 痕跡はあった。明治初期大阪府の教育は校舎は立派だが教師は三分の一人前と文部省から酷評された時でも、但し豊島、能勢郡の方が市内より良いと言われた。その中心はもちろん池田である。この池田に、われらが母校に先立つ幻の池田中学校が二つもあった。明治以降は文教都市ではなかったと言える。
 文部省第六年報では、明治十一年、府の指示により市内に区立中学4、郡部に郡立中学6校が新設されている。府立中学校が別に存在する。豊島郡立池田中学校は、池田村に存在とだけあって正確な場所は池田市史も明らかになし得ていない。教員男子四、生徒男子十七、女子四、計二一の共学校で主長八木正厚とだけわかっている。十四年ごろまでに姿を消している幻の第一号である。なお、能勢、島上下島郡には中学はなし。
 次の府立池田中学校は、教育知事菊池侃二(きくち・かんじ)の「教育十ヶ年計画」にもとづき、明治三六年、府立第九中学校として現在の市立池田中学校所在地に開校した。創立年代と場所がわかっておりながら何故「幻」なのか。即ち卒業生が一人も存在せず、早くから府学務課(及び現在の府教委)の元帳には九中は四條畷、十中は今宮となっているからである。書き改められる前は九は池田、十は四條畷になっていた。府立最古の北野はすでに百年を超え、府立高校の数も百に達したが、その中の唯一の汚点が生まれたままに見殺しにされた旧九中である。
 府政百七年の歴史で、単なる人気とりやゼスチャーでなく真に教育の振興に献身したという点で、今後とも永く史家の検証に堪え得る知事は唯二人、渡辺昇と菊池侃二しかいないとは凡そ史家の見解の一致するところであるが、「教育とは極道息子のようなもの」とする大阪の伝統的風土にあっては、二人の末路はともに気の毒であった。菊池知事は池田中学校が発足する前年から休職を命じられ、池田と殆ど同時開校の十中が府立中学校はすべて郡役所所在地に開設されるという計画と伝統を無視して四條畷村に開校されたが、識者は四條畷神社創建と旧陸軍との関係とに危惧の念を抱きはじめていた。
 三九年六月、同知事は免官となり、開校直後の池中はその保護者を失うが、さらにその後任に教育にはあまり積極的意慾も関心も示さなかった高崎親章が知事として着任したところに前途の不吉が予感された。事実高崎知事は、本来の教育については消極的な姿勢しか示さなかったし、それでいて池中廃校と入れ代わりに誕生した今宮中学校と島之内高等女学校(現夕陽丘高校)には「日露戦争戦捷記念学校と云ふ可し」とおだて上げ、教育の場に持ち込んではならぬものを平然かつ積極的に持ち込み、またこの種の因縁をとかくめでたがる事大主義者としての面目を遺憾なく発揮した。
 廃校の理由は財政難であったという誤った通説がまかり通っているので第一にこれを直す。即ち地価の安い池中を売って、既述の今中と島之内(夕陽丘)高女二校を建てるのは経済的にも逆である。財政難は口実であったことがわかる。しかし、それでは核心に触れていない。廃校候補の第一は十中で、世間でもそう思い、同校内部も覚悟し、その準備をはじめていたことが同校史にも明記されている。突然逆転したのは何故であろうか。
 府会記録は、生徒の半数が地方税(今で言えば府民税)を払わない他府県在住者の子弟によって占められているという財政上の不平等を指摘する。この指摘は正しく生徒一九九人中府民の子弟は九六人に過ぎなかった。但し、今日的感覚ならいざ知らず、当時の風潮としては東京(日比谷)、京都(洛北)、神戸(神戸)の各一中の例をまつまでもなく、北野以下大阪の各府立中学も大なり小なりこの傾向を有しており、むしろ令名全国に伝わるとして府当局も含めて得意がるのが常識であった。池中の場合も、京都府や兵庫県はおろか東京府や鹿児島県からの遊学者の名が見える。何かと言えば土性っ骨とか気骨を誇りたがる大阪府が、よりによって浅ましき理由づけ(俗世ではこれをイチャモンツケルとかインネンツケルと言う)をしたものである。
 「悲嘆胸に迫り終夜眠らんと欲するも能はず、恨を懐き涙を吞んで憂愁やる方なく(生徒笹部孔三郎日記)」にやり場のない少年達の怒りと悲しみが集約されている。しかし、大局的判断に立った決定ではほかに利点もあろう。自分たちの犠牲によって他が何か得る所あれば瞑目しようというのが明治の気風であった。ましてお上が財政難とおっしゃる。懸命に説得した先生や親は、さきの二校が新設されるに及んで当惑し、やがて口をつぐみ、反比例して生徒の声は荒々しくなった。「府会議員にだまされた」「知事にだまされた」
 不思議なことに、数多くの恨み言の中に校長や先生に対するものが一つもないのは救いであるし、同校の教育が順調に進んでいたこと、つまり叩き潰すべきものでなかったことを物語っている。別にひがんで言うわけではないが、この廃校問題をめぐる奇妙なやりとり、巨大な権力集団の隠然たる後押しと、陽の目を見た両校が昭和期に入って最も熱烈な軍国教育を展開して、楠公教育御三家の二本柱を形成するのとを一概に偶然と片づけてしまえるものかどうか。かつて毎日新聞が指摘した「働いていたのは政治的、思想的配慮、欠けていたのは教育的配慮」という表現は言い得て妙である。
 興奮する生徒達を前に校長尾見五郎は諄諄(じゅんじゅん)と説いた。校舎もいずれなくなろうし、植物園や運動場も麦畑や果樹園に変わり果てることもあろう。たとえ何本かの記念樹を植え、記念碑を建てたところで永い風雪に耐えられるだろうか。それよりも諸君が立派な人物になってくれれば本校の生命は永遠となる、と。そして結んだ。
 一人ノ功過ハ旧同窓者全般ノ栄辱ニ関ス、克ク思ヒ克ク顧ミ、永ク池田中学校ノ生命アル記念物タレ
 炎天下鼓ヶ滝で水泳訓練をうけ、白雪をふんで桜井谷に雉や兎を追いかけた二百余の師弟は府立茨木中学校や京都府立一中などに四散した。天味方せず、時に勝てず、命に殉じてと記録は伝える。よって現在地には記念碑も何も残らず、ただ鬼瓦一枚、バッジ一ヶ、廃校記念誌「丙午紀念」一冊だけが池田市当局及び市立池田中学校歴代校長のご厚情により丁寧に保管されている。
(しかし、しかしであります。そのご厚情とは別に今後決して産み捨てはしないという反省のためにもかかる記念品は府学務課が保存し、府教育委員会が継承すべきであると、ひたすら考えるものであります。)
 それから三五年たった昭和十六年、その前年から大阪市内に開校していた府立第十六中学校が、その名も池田と改めて通称旭丘にある畑一六〇番地、旧府立園芸学校跡に移って来てゆっくりとではあるが、確かな根を下ろしはじめた。三度目の正直である。
思えば長い、長い空白であった。




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