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sftest | 投稿日時: 2012/2/9 11:54 |
管理人
登録日: 2011/8/25
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創立40周年記念誌より メタセコイア
池田高校創立40周年記念誌『承風』―1980(昭和55)年3月1日発行―にメタセコイア植樹に関する記事があります。
「思い出の池高史」第4章 筆者は英語科 篠田恭一先生です。 メタセコイア あれはスターリンが亡くなった年だったから年表をくると昭和28年である。この話はスターリンとは何の関係もないのであるが筆者はある日の放課後、職員室の一隅に下の方を新聞紙で包んだ一本の木の枝のようなものを発見した。実に無造作に壁に立てかけてあったので教室で指示棒に使うのに丁度よいと思った。昔は鞭とよび教鞭をとるなどといって授業にはなくてはならないものであったが、鞭と言えば矢張り叩くことを連想させるから指示棒というような名前にかわったのである。筆者はその指示棒をもっていなかったので長さといい太さといい全く手頃であったところからそれを頂戴しようと思い念のために教頭の大川先生に訊ねてみた。すると先生は急に思い出したように「あゝ、それを早う植えないかんのや」と多少慌てたふうに立ち上がるとシャベルを片手にその木をもって校庭へ出ていかれた。それで筆者もそれが何かの苗木であることを始めて知ったのであるが、事の成り行き上、仕方なく、と言えば失礼になるがとにかく手ぶらでそのあとについて行った。 先生は校門の横の力イズカの生垣の近くに穴を掘るとそのか細い苗木を植えバケツに汲んできた水をぶっかけ、「さあ、これでええやろ」と言って引き揚げられた。その間、約5分。これが池高のメタセコイアの生誕である。 筆者は浅学のためメタセコイアとは如何なる植物であるか、その時は勿論、その後も久しく知らなかった。5期生の三木隆君に道で出会ったとき「僕の父が寄付したメタセコイアは育っていますか」と尋ねられ「あゝ、大川先生と私とで植えたから、安心してくれ、ちゃんと育っているよ」などと答えたが同君のお父さんが有名な三木茂博士であることも後になって知ったのである。 さて、そのメタセコイアであるが「現代用語の基礎知識」l970年版には次のように記載されている。「セコイアは世界翁ともいい、米国カリフォルニア地方に育成している巨木であるが極めて巨大となることがある。この植物は化石としてあちこちで発掘されるが、これと縁は近いが、少しようすの違う化石が日本で発掘され、三木茂博士によって研究され、メタセコイアと名づけられた。その後、胡、鄭両氏によって同じ種類の化石が、中国に現存して成育していることが三木博士とは別に分り生きている化石として名高くなった。」 またエンサイクロピーディア・アメリカーナは「メタセコイアは始め日本及び朝鮮で発掘される化石として1941年に公表されたがその後広く北半球で同一のものが発見されている。成育しているものが1945年と1946年に中国で発見され学術的には1948年に研究発表された。(原文は英文)」と述べ、平凡社「世界百科辞典」では上の両者を併せたような説明に加えて、成育している木の発見地は中国の四川省で発見者は王氏。その後1946年胡氏、鄭氏によってメタセコイア・グリプトストロボイデスと命名されたがその後アメリカの学者によって世に紹介され、かつ種子や苗が配布されて世界各地で見られるようになった、と述べている。その苗が三木博士の手に渡ったのであろう。 中国四川省といえば重慶の所在地で、蒋介石が抗日戦の最後の拠点としたところ。また1941年といえば日本軍が真珠湾を攻撃した年、そして1945年といえば終戦の年である。妙に戦争と因緑の深い木である。更に余談になるが四川省は昔の蜀漢の国である。その頃も当然メタセコイアは繁茂していた筈だから「三国志」で有名な諸葛孔明の大部隊もその巨木の間を見えかくれしながら蜀の桟道を行軍していったかもしれないという伝奇小説的な空想にふけるのもまた楽しいではないか。 〔コメント〕です 正門横にメタセコイアが植えられた状況が、『池高新聞』第175号の平賀正男先生の記事と違っています。 このことに関してご存知の方がいらっしゃれば、お教えください。 |
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